2013年4月16日火曜日

Hong Kong Blues

 僕は八重桜が好きではない。くしゃっと丸めた使用済みのちり紙のような花房と、あの主張の強い葉と花のバランスが鼻持ちならない。花だけが密生して辺りを薄桃色に彩るソメイヨシノに遅れてシーズン・インするだけに、何かいやらしいものを見せ付けられた気にすらなる。しかしこの季節、足元に視線を落とせば黄や紫のパンジーやタンポポ、緑鮮やかな葉と茎の先には赤いチューリップ、4月21日の松屋町地下一階にThe Great Tumblingdown#20、そしてその直後には情熱の真っ赤な薔薇が息を潜めているのである(ブルーハーツのファンではありません)。いやはや、気候がいくら不安定とはいえ、時が来れば春はおとずれ、大地を彩っていくのだなぁ、などと年寄りめいた思いにふける俺はまだ三十三。そして今宵も闇深き神楽岡は眺めの宮殿から、世界中に独り言を送る。返事はいらない、死ぬまで生きるだけさ(意味不明)。

 「どんなに美しい花でもな、足元には泥にまみれた醜い根っこが埋まっているもんだぜ…」

 ハンフリー・ボガートとローレン・バコール初共演、ハワード・ホークス監督の「脱出(原題:To Have and Have Not)」に登場するシンガー/ピアニストと、その彼の歌う歌が何なのか気になっていた。モーズ・アリスンやチェット・ベイカー、ジョージィ・フェイムを思わせるさり気なくも気だるい歌唱法と、ビートルズの末期にポール・マッカートニーが午後のティータイム、バルコニーのロッキング・チェアに身を揺らし、鼻歌交じりにすらすらっと書き上げてしまったかのようなメローディー・ラインに魅了された。始めてこの映画を観てから10年は程経過しているであろう。その間に少なくとも三回は観ているはずである。現代は猫も杓子もインターネットの情報社会、知ろうと思えばいつでも調べられたはず。それなのについ先週まで彼の名が「ホーギー・カーマイケル」ということも、いつまでも耳について離れない、あの奇妙な魅力を持った歌の名が「ホンコン・ブルース」ということも知らなかったのである。それを知るきっかけは些細な日常の会話であった。
K宅で少し塩の効きすぎた水菜とレンコンとオイルサーデンのパスタを何とか完食し、くつろぎのひと時にコーヒーカップを傾けていると、「これご存知かしら?あなた好きそうよ」とKが差し出したのがそのホーギー・カーマイケルのレコードであった。「ほう、試しにかけてくれたまえ」と僕がいうと、Kはスリーブからレコードを慎重に抜き出しターンテーブルに乗せた。スイッチを入れるとLPは33rpmの速さで回転を始める。そして針を落とすとスピーカーが「ホンコン・ブルース」を歌いだしたのだ。僕はすぐさま聞き覚えのあるそのメロディーに反応し、記憶の糸をたぐるが思い出せない。最後に「脱出」を観てから決して短くはない時が流れたのであろう。何しろ気になっていたことさえ忘れてしまっていたのだ。喉の奥にわだかまりを含んだまま、僕はおもむろにライナー・ノーツを取り出した。するとそこには前述の事実が書き込まれている。”ホンコン・ブルースはハンフリー・ボガートとローレン・バコール初共演、ハワード・ホークス監督の「脱出(原題:To Have and Have Not)」の劇中で、ホーギー・カーマイケルが自ら出演し演奏している曲のひとつである”。無論、狂喜乱舞である。幼い頃に転校してしまい、顔や名前はおろか本当に存在していたのかすら不確かなクラスメイトが、突然家を訪ねてきたかのような衝撃である。十年前にもらい損ねたバースデイ・プレゼントがタイムマシンに乗ってやってきたのだ。
しばしオロコビ(驚きと喜び)を噛み締めた後、「もし、インターネットで検索にかけていたら、これほどの”オロコビ”に巡り合うことはなかったのではなかろうか」との考えにぶち当たる。最初に「脱出」を観て受けたインパクトから、K宅での再会にいたるまで、「ホンコン・ブルース」と僕はお互いに最短距離を迂回してきたのだ。その道のりで身に付けた様々な要素が相まって、前述のような衝撃の再会が生まれたのである。その要素とは「すぐに調べなかった」ことや「気になっていたことすら忘れていた」こと、「塩の効きすぎたパスタ」や「食後のコーヒー」なども含まれるはずである。
もし検索していたとしても、僕はきっとそのレコードを捜し求め、お気に入りの一枚に加えていただろうし、それはそれで楽しい時間を過ごせたに違いない。しかし今回のようなスペシャルな体験はできなかったであろう。
合理性や利便性は確かに「使える」。しかし人や物との出会いとは、この出来事のようにちょっぴりロマンチックであって欲しいものだなぁ、と再確認するのであった。

あと四日!







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